和41年08月21日 夜の御理解
自分でするという心にはおかげはなし、させて頂くという心におかげがあるとこう仰っておられます。はっきりおかげは無し、おかげがあると言う様に教えておられるのでございますから、信心させて頂いて、いろんな事が分かる。やはりそこの所をさせて頂くと思いもする、言いもするんですけれども、それが本当のさせて頂く事になっていない証拠に、例えば疲れがありましたり、そこになんとはなしにすっきりしない。そしてさせて頂くという心におかげがあると仰るのにおかげが頂けないと言う事になる。
結局口ばっかりである。分かって居るだけである。
本当にさせて頂くということが実感させてもらうということが、まあ信心の稽古の焦点になる訳ですね。の光橋先生が今朝もお参りに出て見えておったですけど、お届けをし忘れたからというて又参ってきました。ほいでまあ、お話聞かせて貰ったんですけれども、石井さんところの娘さんが亡くなられ、三カ月あまりだったですかね。もうそれこそ若い者でも続くまいと言う様なあの狭い病室で冷房がしてあるわけでない、あの暑い病室で自分の娘なればこそですね、あれだけの看病も出来たんです。
そして皆さんご承知のように非常に身体を大切にされると同時に弱い方なんです。それがここ三カ月間というのはきびきびしてあった。顔色まで良うなってあった。それで光橋先生、お届けされるのに、なんか亡くなられてから力落しされたというと同時に三カ月の疲れが一遍に出たと言う様に疲れが出てあると。これは石井さんのことだけではないですけれども私共の場合でもですね、例えば大祭なら大祭、本当に一生懸命御用させて貰うてもやっぱり疲れますよね。
だから大祭といえば本当に神様に真心から身も心もと言う様に、大祭ですからこれだけ御用させて頂いて居るというけれども、それが本当にさせて頂きよるでない証拠に、もう疲れたということになって来るですね。その辺のところをやはり自分の信心させて頂くという、おかげの頂けるというその心から、まだそうういうものだということを分からせて貰って、いよいよその焦点を合わせて行かなならんのです。
例えていうならば、ほんとに私のような弱い者が娘の病気に依ってから二、三カ月間心をひっからげて用をさせて頂いている内に自分の身体の悪いのをもう忘れてしまっていた。見てご覧なさい、あれっきりこんなに健康になりましたけんねというおかげを頂いた時、初めて御用を受けられれたということになる訳なんです。誰もしてがないから私がしよる。嫁ごにさせたっちゃ本当の世話が出来んから私がもう歯を食いしばってしよるとこういうのであっては駄目だということですね。
けれどもこれは石井さんの所の例をとったですけれども、これはもう誰でもそう言えれることじゃないかと思うですね。ですから本当にさせて頂きよると思いよるけれども、自分がしよるんだというところをですね、自分で分からして貰っていよいよさせて頂くと、させて頂く心にはおかげがある。自分でするという心にはおかげはなしと仰るのですから、自分は大概させて頂きよる積りだけれども、その証拠に、自分でさして頂きよらん証拠に、自分がしよる証拠に疲れる。
そこのところを段々狭めていくというところに焦点を置いて信心の稽古をしたらですね、どう言う様な状態になったら御用させて頂くことになるだろうかということになってくのじゃなかろうかと思うですね。もう本当にへとへとになるほどにお使い回し頂いた。そしたらあれを境にこんなおかげ頂いたと言う様なおかげにって初めて御用させて頂いたということになるのじゃないでしょうか。
どうぞ。